ALS告知から社会復帰まで
1・発病から告知まで

平成9年の夏に、それは前触れも無く突然やってきました。
その闘いが今までに経験の無い程の過酷さで大きな渦に家族を
巻き込んでいく事になるとは、その時は予想だにしていませんでした。
それとは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という、今の医学をもってしても、発病原因も治療法も無い難病でした。
その病気はまずは私の右足の先からやってきました。
歩行に違和感を感じた私はまず近所の整形外科にかかりましたが何1つ分らないまま湿布薬を出されて、治療をしたとは言えないまま数ヶ月を過ごしました。
その数ヵ月の間にみるみる右足の筋肉は痩せて無くなり、いつも履いているジーンズの右足だけがぶかぶかになり、これはただ事ではないと思い、ある大学病院にかかりました。
すぐに検査をした方がいいという事で筋電図の検査を早くできる病院を紹介されて検査を行い、その結果の封筒を持って妻の父の友人の医師に見てもらいました。
その日のことは一生忘れられない日になるとも知らずに・・・
その時の医師の「車椅子を覚悟して下さい」という言葉は私の心の奥底まで突き刺さり身動きが取れないほど衝撃的な言葉でした。
同行していた妻も同じであった事が後ですぐ分りました。
それは帰り道で行きつけの店でランチを取りながら私はいつもの様にワインを飲んでいました。 はたから見ればよくありがちな夫婦の光景だった事でしょう。 しかし私の心の中は今まで感じた事の無い焦燥感に襲われていたのです。その時、ふと妻の顔を見たときに目が合って、その瞬間に心にあった焦燥感は涙となって一気に溢れ出しました。妻も同じであふれる涙を抑える事が出来なくなりました。
私はその時の気持ちも光景も一生忘れる事はありません。
その焦燥感が絶望という二文字に変わり、二足歩行が車椅子に変わるのにそれほど時間はかかりませんでした。
皆様にはまず告知後の心理を理解していただきたいと思います。この事を理解していただけないと難病患者の心の奥底に宿った絶望感がどれほど根の深いものかを理解していただけないからです。 

2.失い続ける中で・・・

私は会社を興して意気揚々と毎日を充実して暮らしていました。そこにALSが招かざるのにやって来ましたから、
その対応は毎日失って行く事に明け暮れることになったのです。
失うことは大変辛い事です。失う事には二つの面があります。
一つは肉体的機能を失う事と、もう一つは今まで築いてきた社会的な地位を失う事を指しています。この二つを失い続ける事を受容しなければなりません。

皆様方が今、職業とされている仕事や趣味や嗜好品をたった今辞めさせられたとしたら素直に受け入れる事ができますか?
きっと抵抗なされる事でしょう。でも、私達は否応なく手放さなければならなかったのです。それに加えて、日々毎日肉体的に動かなくなる現実も同時に受け入れなくてはならなかったのです。

皆様、想像できますか?
これは、修行僧に似ています。
社会的地位を捨てるのに加えて、食べることも飲むことも体の自由をすべて失いますから!しかし、修行僧が悟りを目的にするのに対して、ALS患者には何も心構えの無いままとても厳しい修行を強いられるのです。

ALSは過酷な病気と言われていますが、私にとっては肉体的な喪失よりも精神的な喪失感の方がダメージが大きかったのです。私はそれを乗り切る為に個人セラピストを雇って毎週1回セラピーを受けました。その中で教わった発想の転換は今になって役立っていますし、潜在意識の活用がどれ程大きく人生を変えるかを学びました。

しかし、そのときは心の奥底に絶望感がありましたから、心で聞くより頭で理解しようとしていた気がします。そのセラピーが本当に役立ったのは全て受容してからになりますが、そういう意味では無駄ではなかったといえます。

.失いつくした時、そして呼吸器をつける前

.普通ALSというと運動神経だけが侵されるといわれていますが、一部に感覚神経や自立神経も侵されてしまう人がいます。

 私は運悪くその一部に当てはまってしまいました。その為激しい痛みが時折襲って来る為自宅療養ができなくなってしまいました。

 その為名古屋大学付属病院に7ヶ月入院することになりましたが、その痛みを抑えるために、ソセゴンという劇薬を毎日打つことになりました。しかし、ソセゴンは依存性が高いために、病院を離れることが出来ずにいました。それに、痛みもとれる事がなくて、困窮していました。しかし、入院も続けるには長くなりすぎた為に自宅へ戻らなければなりませんでした。

 その入院期間中に病気の進行は止まることはなく、入院した頃は普通食を食べられていたのが、退院する頃にはやっとで全粥が食べられる程に嚥下機能も落ちていましたし、体も全廃になっていました。
しかも深く座ると呼吸が苦しくなるようになっていました。

私たちは、自治体の福祉制度を知る暇も無く介護に追われていましたから、退院する時に初めて訪問看護があることを知りましたし、ヘルパーさんに入ってもらえる事も知りました。入院する前は家族でシャワーを浴びさせてくれたり、排泄も全て家族でやっていましたから、それが当たり前と思っていましたし、介護に追われて自治体のサービスがあることなど知り得る機会もありませんでした。

退院後、私は痛みに苦しみながら生活していました。そして、とうとう呼吸が出来なくなっていくのでした。
なんと、家族に24時間腹を押してもらい、3ヶ月間も24時間手動式人工呼吸で生きていたのです。

4.呼吸器をつけた後の心境の変化

 人工呼吸器を着けるという事は皆さんおそらく延命装置を付けることとお思いだと思います。
私もそう思っていましたし、名大病院に7ヶ月入院した時、隣の病室に人工呼吸器を着けた方が入院していて、私はその人工呼吸器の音を聞くたびに恐怖感を覚えていました。
生きているのに身動き一つできずに人工呼吸器に縛られている。つまり生きているのに死んでいると思っていました。
だから自分が人工呼吸器をつけると、同じ様になって家族を縛ってしまうからこのまま死んだ方がいいのか、それとも生きる権利があるのか迷っていました。
いよいよ苦しくて失神までするようになった時は、私はどうしてもこのまま人生を終わる訳にはいかない。私は今まで一生懸命生きてきたから悔いはない。もう失う物はない。きっと私にしかできない事があるはずだと思って妻に「生きてイイかな・・・?」と質問しました。
答えは「もちろん生きてくれてるだけでいい。」というものでしたので、私の迷いは吹っ切れてすぐに人工呼吸器をつけるために名大病院に向かったのです。
人工呼吸器を付けると呼吸が楽になって、何故もっと早く着けなかったのかと思いました。
主治医にその事を告げると何故か笑っていました。 その時は、人工呼吸器にスピーキングバルブを着けて、呼気に合わせて喋ることも出来てとても嬉しかった事を記憶しています。 それから私は失う事をみるのではなくて、これから得られる事に目が行くように変わったのです。
人間とは不思議なもので失いつくしてどん底まで落ちてしまうと、それ以上落ちる事が無いので開き直って強くなれるものなのです。
それから、妻に名古屋福祉用具プラザに電話してもらって、渡辺様(現・日本福祉大学助教授)に来て頂き、パソコンの操作環境を整えて頂いてからはインターネットで自分の世界が広がって、こちらから世界に向かって働きかけできるようになったのです。
つまり、私は自立の第1歩を踏み出せたのです。

5.在宅へ帰ってからの介護環境と問題点

さて、いよいよ家に帰れる時が来ました。

名大病院の神経内科病棟の師長さんはとても素晴らしい方で、在宅に向けて訪問看護をはじめケアマネージメントをして下さいました。しかし、家に戻ってからの方が病院より大変な日々が待っていたのです。

それは私が人工呼吸器をつけているがための問題でした。

人工呼吸器をつけていると頻回に吸引が必要ですが、それを出来る者が母と妻だけしかおらず、その結果、母と妻24時間を家に縛りつけることになったのです。しかも、母は高齢のために無理はできず、妻が介護の90%を背負うことになったのです。痰や唾は昼夜を問わず妻を襲う結果となり、妻は睡眠をとることができなくなってしまいました。それならヘルパーさんにやっていただければいいと思われるかもしれませんが、私の退院した平成14年はまだ家族と訪問看護師にしか吸引は許されておらず1日1回1時間程度の訪問看護時間に休憩をとれと言われても焼け石に水の状況でした。

人工呼吸器をつけた患者にとって、ヘルパーさんにはやっていただけることがなく、吸引するにはよほどの大家族にて交代でするしか方法はなくて、在宅介護にはとても厳しい現実があると痛感しました。

6.問題を解決する為に

平成15年の初め頃にとうとう妻は睡眠不足の究極まで来て、一瞬にあちこちで寝てしまい、私は痰がつまってこのまま死んで行くのだなと思う事が何度もあり、失禁することもしばしばありました。

そんな究極な時に支援費制度が始まったのです。
私はこの制度を使えば妻と、同じように苦しんでいるご家族も助けることができると思って訪問介護の事業所をつくる決意をしたのです。
そうしたら、7月にはALS患者に限りヘルパーさんによる吸引行為が許可されたのです。
私は自分の体を練習台にすれば、ヘルパーさんに吸引を覚えてもらえると思い、自ら研修材料になることを決意しました。
そのことで、妻も、同じように吸引で困っている方々も、少しずつ助けてあげることが出来る様になりました。

そこには支援費制度が出来たこと、そして名古屋市に24時間介護を可能にしてくれる福祉体制があった事が重要な要素でありました。

7そして今

今、私たちの立ち上げた愛ライフは訪問介護に居宅介護支援事業所を加えて今まで困難と言われていたALS患者さんや呼吸器を付けた患者さんなどを在宅療養できる環境作りのお手伝いをしています。吸引のできるヘルパーさんも毎月増やしています。入院している方々をどんどん自宅に帰ってもらえたら良いなと思っています。

                         藤本 栄